薩摩藩による奄美・琉球侵攻400年記念事業、奄美群島、沖縄各地で開催されていますね。
今日の南日本新聞でも昨日の那覇でのシンポジウムの記事が掲載されています。
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=16788
小学生レベルの当ブログでも何度か取り上げていますが、今年のGWの徳之島は闘牛だけでなく、2日に同シンポジウムも開催されてましたので、気になっていました。
"決算さばくり(作業)"でなかなかネットをやる時間もなかったのですが、ようやく落ち着いてきたので、色々な記事を読ませてもらってます。
やはり頼りになる記事は喜山さんのブログ(与論島クオリア)ですね。ほぼ全ての関連記事を網羅してる感じがします。
「与論島クオリア」
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/
最初に奄美群島各地で~と書きましたが、結局奄美大島では4月12日の笠利・津代での慰霊祭とシンポジウムだけのようで、今後は何も予定されていないのですかね?
個人的には奄美大島でも徳之島のような顔ぶれでやってほしかったのですが、奄美大島の立ち位置的にも企画できないのか、しづらいのか、、、なんてことがあるのかな?と考えたりもする今日この頃です。どっちみち会場に行けない身分なので、そんな意見する立場にないのですが、、、
そんな中、姉圓から昨日の地元紙「南海日日新聞」で掲載されている徳之島でのシンポジムの記事が送られてきたので僕も勉強のためにアップしとこうと思います。それと、3日付の同新聞での弓削さんの講演記事も。
パネリスト 弓削 政己(奄美郷土研究会)
原口 泉(鹿児島大学法文学部教授)
金城 正篤(琉球大学名誉教授)
高良 倉吉(琉球大学法文学部教授)
幸多 勝弘(天城小学校教員)
吉満 庄司(徳之島高校教諭)コーディネーター
侵攻過程、支配構造探る
たくましく生き抜いた島の先人
―今回のシンポジウムは過去のことを終わりにするのではなくて、それぞれの立場から意見を出し合って今後の一歩を踏み出す契機にしたいと考えた。徳之島で討論することに意義があると思う。薩摩の琉球侵攻に至る経過、大軍をもって攻めた時代背景、社会事情を話してほしい。
高良 四百年前の軍事行動で「どんな被害が出たか」とよく聞かれるが、分からないのが実情。琉球側の事情を知るためにも薩摩、奄美、中国の史料を使って四百年前、その前後の状況を知る作業をしなければならない。
一つ言えるのは当時の琉球には三千から四千人の軍隊がいた。琉球には武器がなかったという俗説がまかり通っているが、そうではない。それなりの軍備はあるが状況証拠を見る限り、ほとんど戦闘経験がない。薩摩軍は日本最強の軍隊だったと思う。その差が結果になったと思う。
三家録にみる徳之島の交渉
―徳之島の侵攻の状況は。
幸多 薩摩が攻めて来るのは1609年だが、天城町誌などによると、1599年、12年前に薩摩は徳之島に入り、事情を調べている。徳之島は琉球側も重視していた。
援軍も派遣している。(徳之島に伝わる)「三家録」にあるように、薩摩軍は船を連ねて入ってくる。これに対して島民側は理路整然と交渉している。琉球入ノ記に「粟粥(あわがゆ)をたぎらかして、敵にぶっかけよ」とあるが、奄美には粟粥で悪霊である侵入者を退散させようとしたのだ。
恩賞、身分で支配体制固める
―薩摩の奄美侵攻はわずか二か月足らず。完全支配に向けての薩摩藩の対応はどうだったのか。
弓削 奄美諸島統治の仕組みを考えるとき、1728年の「大島御規模帳」というのが基本になるだろう。それまでもいくつか整備している。与人の金の簪(かんざし)を禁止する。あるいは支配直後の大親など島の統治者へ与える知行目録に「薩摩のために功労があれば恩賞がある」という文言がある。これは奄美にしかない。
こうして直轄支配地の体制を固めていく。
身分の問題も大きい。「大島の民は基本的に百姓(農民)の身分とする。」とした。1688年に徳之島の代官が系図差出を命じる。有名な1706年系図差し出しは鹿児島全域にわたる。その中で、系図を焼き捨てて身分をなくすという話になっているが、系図を基にした身分や役人の取り立て編成に目的があり基本的には「百姓身分にした」。その上で藩の政策にあった島役人の編成ととらえた方がいいのではないだろうか。それは大島だけではなくて、黒島・竹島・硫黄島の三島村も同じである。
冊封体制、清朝も引き継ぐ
ー冊封体制と琉球、奄美をどう考えればいいか。
金城 琉球王国は薩摩侵入以前は独立国だった。それ以後は中国にも貢物を持っていく、薩摩にも税を納める、いわゆる二つの国に両属する状態が続く。中国との関係が公式に始まるのは1372年といわれている。このときから冊封体制が始まり、明治の琉球処分、1879年、つまり前後五百年にわたる中国との関係がある。琉球の国王が代わるたびに中国の皇帝が冠船を琉球に派遣する。貿易を伴い、経済的利益をもたらした。1644年、島津の琉球侵攻の少し後、明から清に変わる。清は満州族であるが、替っても明時代の冊封体制は残り、琉球は独立国の体裁を保った。奄美は経済的な恩恵を受けない中で負担を担ったことになる。
徳之島「騒動」支配者の論理
―幕末になると、調所広郷の改革で多くの人が苦しんだ。原口さんは徳之島で起きた騒動は「一揆」と位置付けている。
原口 犬田布騒動とか母間騒動とかいうのは時の支配者の命名。最近までは日本側は日中戦争を支那事変と呼んでいた。国際的な問題になる。それを避けるためのもの。本質は一揆に違いない。
薩摩支配、光と影をみる
―代官記や徳之島事情をみると、飢饉があるとたくさんの人が死ぬ。それをどう受け止めるか。
幸多 徳之島は1775年に三千五百人余りが餓死している。牛馬も二千頭余りが死失した。疱瘡(ほうそう)が流行すれが千八百人もの人が死んでしまう。島の周囲に人骨が累々としている場所がある。こうした形で葬らざるを得ない事情があったのだ。
薩摩の支配体制に組み込まれたのは島役人であった。初めのころは公共的な事業をした人を取り立てたが、その後、砂糖を貢げば郷土格に取り立て一名字を与えた。
1802年以降は郷土格を得るために、こぞって砂糖を献上していく。民衆支配の二重構造がある。末端の家人は三、四割もいた。多くの人は債務下人となっていく。光と影がある。光は薩摩藩の斉彬が進めた近代化。影の部分で奄美の人々が命を削った。その事実を受け止めなくてはならない。昇曙夢が「大奄美史」で「大なる事業の前の小なる犠牲」と言っている。果てしてそうだろうか。わたしたちは先祖のたくましさを道しるべとしていきたい。
歴史の記憶踏まえ沖縄と交流を
―沖縄からの提言を。
高良 鹿児島と沖縄県は意外と交流がない。それがどんな問題を引き起こしているかといえば、南の特異な文化を持っている地域で研究所をつくるとか、新しい文化を
創造する仕掛けをつくってみるとか、あるいは中国、アジアに対する戦略をつくっていく。それがやれてない。鹿児島と奄美、沖縄が手を携え、歴史の記憶を踏まえつつ、どう連携していくかを真剣に考える時期にきている。
偏見・差別解消が平和な社会をつくる
―鹿児島、地元側はどうか。
原口 鹿児島本土という田舎、奄美という離島で世界を相手に活躍している若者がいる。幕末、四百年前の郷土の姿を思い浮かべることができる。中 孝介さんもそう。わたしは勇気と誇りを持ち、そういう若者を送り出す。それが社会的役割だということを「篤姫」で伝えたかった。徳之島で思いを新たにした。
幸多 歴史に学ぶことはたくさんある。悪いことは繰り返さない。よきものは伝統文化として継承していく。偏見、差別から解放していくことこそ平和な社会をつくる。「薩摩の人たち」という見方も克服していかなければならない。
奄美の人たちには厳しい時代に、元気に自分たちの文化を築いてきた。米軍政下の八年間は赤土文化が花開いた。今一度、自分たちの手で足元の文化を見つめて花開く取り組みをしたい。
以上が9日の記事。
以下は3日の弓削さんの講演記事。
山、ワイナに着岸、湾屋、秋徳攻める
薩摩軍侵攻経路で新解釈
400年記念事業で弓削さん
奄美郷土研究会の弓削政己さん(59)=奄美市名瀬=は2日、徳之島町であった「薩
摩藩、奄美・琉球侵攻四百年記念事業」で、薩摩軍の侵攻経路で新たな解釈を打ち出した。薩摩軍の徳之島攻めは秋徳湊(徳之島町亀津)の戦いが知られているが、薩摩軍の一部が山(徳之島町)と、ワイナ(ワンヤ)=天城町湾屋=に着岸。湾屋と秋徳を攻めた、と発表した。
新解釈は薩摩軍の副将・肝付兼篤の系図・文書を収録した「肝付家文書」を読み解き、正保国絵図(古地図)、徳之島古図うぃ検討することで生まれた。文書について
は、えらぶ郷土研究会の先田光演さん(和泊町)の研究が先行、ワイナの戦いについ
ても「徳之島郷土研究会報第二十六号」(2003年10月)で発表している。
喜入肝付家は庄内の乱(1599年)で島津氏側に立った一族。関が原や朝鮮出兵
にも参戦した兵(つわもの)だ。初代・兼三の際、喜入に移った。樺山久高を大将と
する薩摩軍の奄美・琉球侵攻に参戦した兼篤は2代目。
文書によると、兼篤は島津家久(藩主)から「後陣の大将、番手として大島制圧後
の守りを固める」ことを命じられた。これに対してやむを得ず同意した。しかし、話
し合いの結果、大島は抵抗が少なく、本隊と共に、琉球へ向かえることになり、「満
足に候、満足に候」と喜んだ。「薩摩軍の認識では琉球戦が主眼となっており、軍
功、巧妙争いがあったとみられる。」(弓削さん)
奄美の侵攻経路についても詳細に記述している。肝付の軍は大島攻略後、これまで
は三月十七日(旧暦)に西古見を出船。風波悪く、本隊は引き返すとなっていた。し
かし、兼篤と配下の白坂式部少輔の船は徳之島に到着する。兼篤と白坂の船は「カナ
グマ」、配下の船七艘は「ワイナ」に到着。島軍一千人が夜通し包囲したため、翌十
八日に船を降り、鉄砲を打ち放ったところ、総崩れになり、五十人ほど討ち取り、五
人を捕虜にした。肝付軍は二十日、秋徳に到着し秋徳の戦いに参戦した。
文書は西古見からカナグマまでを十八里、カナグマから秋徳までの距離を「カナグ
マヨリ海上五里」としている。当時、徳之島にはいくつか港があった。正保国絵図は
「井之川ー秋徳港まで海上一里半」とあり、カナグマには当たらない。弓削さんは徳
之島古図も援用し、山に「かなま崎」の地名があり、亀津まで海路五里とあることに
着目、「カナグマ」は「山の岬」と考察した。
また、琉球側は和平使者を三度送ったことも分かった。最初は「喜安日記」(琉球
側の史料)にある天竜寺の僧を大島に派遣したが会えなかった。二回目は使僧を送っ
た。三回目は使僧と、三司官・名護親方、鎖之側(さすのそば)の三人。使者の願い
は「ただ合戦を止められるべし。進退は命に従う」とある。琉球側の和平志向、交渉
内容がより具体的に把握できる。
弓削さんは「近世史研究は、これまでの史料に加えて鹿児島側の系図、文書を加え
ることでより詳細な検討ができる」と述べた。






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