4月14日の当ブログの記事「笠利町で慰霊祭とシンポジウム」の地元紙「南海日日新聞」での記事を姉圓に送ってもらいましたので、僕の記録用にアップします。同じく徳之島・秋徳湊で行われた慰霊祭の記事写真も。
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奄美の将来考える契機に 津代古戦場跡で慰霊の集い
2009年は薩摩軍の奄美、琉球侵攻から400年の節目にあたる。奄美大島の「三七(みな)の会」(事務局・森本眞一郎さん)は12日、薩摩軍が上陸、戦闘のあったといわれる奄美市笠利町津代で「慰霊のゆらい」を開催した。参列した人々は戦闘で犠牲となった先祖の霊を慰めるとともに、「400年を奄美の将来を考える契機にしよう」と訴えた。
「三七の会」は薩摩軍が上陸した1609年の旧暦3月7日にちなんで命名。1997年から「ゆらい」を続けている。ことしは薩摩軍の侵攻400年ということもあり、70人を超える人々が参列。関東や関西、徳之島からも駆けつけた。
「ゆらい」にあたって朝山 毅・元笠利町長は「奄美の人々はかつて自分たちの歴史や文化・出自に自信の持てない時期があったが、今の子供たちは違う。堂々と奄美大島出身といえる。それは皆さんが誇りを持って伝えたからだ。将来に希望を持ち、津代を連携の地にしたい。」とあいさつした。
三七の会の薗 博明さん(74)は「13年前、山の中で人骨を見たことがきっかけになり、ささやかな催しが始った。先人達が必死になって子孫を守ろうとした思いを受け継ぎ、これからの奄美を考えるステップにしたい。」と訴えた。
島唄の唄者・築地俊造さんが「よいすら節」に乗せて鎮魂歌をささげた後、参列者がそれぞれにソテツの葉を献花。笠利の「いっちゃりょん会」(橋口 勝会長)は八月踊り、六調を披露した。「ゆらい」に続いて「語る会」があり、出席した人々は「シマンチュとしての誇りを内外に発信していこう」と申し合わせた。
薩摩軍は1609年3月7日、奄美大島に入った。津代湊には総大将の樺山 久高の船団が入ったといわれている。西藩野史(薩摩の記録)は津代では笠利の大親が3千人を率いて応戦したが、鉄砲の前には歯が立たずに敗走した、と伝えている。







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